公益財団法人 青井奨学会
文字サイズ 標準 拡大
創立者 青井忠治について
創立者 青井忠治について
創立者 故青井忠治氏の思い出
本会の生みの親、青井忠治氏は、両親との縁が薄く、わずか1歳で母を失われ、3歳で父と死別、兄弟もない天涯孤独となりました。それにもまして、1歳の時ハシカにかかり、一夜で左の目が失明状態となるなど不幸な境遇に見舞われ、祖母や従兄夫婦に育てられました。18歳で自立のため上京し、新宿の丸二商会で家具の月賦販売に従事しましたが、当時は先輩後輩のけじめが厳しく、愛媛県人ばかりの中に他県人として入り言葉も通じず、大変つらい思いをされて、いっそ上野の不忍池に飛び込んで死んでしまおうかと考えたこともあったそうです。
家具の修繕係をしながら次第に集金や販売の仕事を買って出て、素晴らしい実績を上げた忠治氏は、僅か4年後には店主に認められて最高幹部に抜擢され、23歳の若さで当時の県知事に匹敵するほどの給料を得るまでになっています。
そして、不況の真っ只中にあった1931(昭和6)年2月17日、弱冠26歳にして、中野店を有償で譲り受けて独立開店。この日は大雪の日で、その後の1週間は売上ゼロだったそうです。これが丸井創業の第一歩です。
幼時からの恵まれない境遇に加えてこの丸二商会での血の滲むような9年間は、忠治氏の胸に深い人間愛を育むことになったといえるでしょう。その後の事業経営に於ける家族主義的な温かさ、社員一人ひとりに対する思いやりの深さは、すべて自らの辛い体験の中からこそ生まれ得たものでした。
それはさらに、一生をかけて得られた私財を惜しみなく社会に還元するという崇高な理念へ高められ、富山県や高岡工芸高校などへの様々な施設の寄贈、そして10億円を投じての本奨学会の創設もその発露の一端であったわけです。
1974(昭和49)年10月、第1回奨学生集会で創立者・忠治氏は54名の奨学生に、自らが歩んできた人生を語りかけました。様々な体験談、とくに因習的な月賦業界に身を投じてからの数奇な物語は、全奨学生の魂に触れ、「激しい衝撃と同時に身の引き締まる感激を覚えた」と、今も一同の心に鮮やかに甦ってきます。 忠治氏が創設に当たって抱いた「奨学金と共に精神的な糧を贈りたい」という意図が、奨学生の心にしっかり伝わったようでした。
しかし、たいへん残念なことに、第2回奨学生集会は故忠治氏の追悼式となってしまいました。以来、奨学生は、ただ故忠治氏の深い愛情に感謝を捧げることができるのみとなったのです。
それから40年間、創立者の遺志を受け継ぎ運営し続けてまいりましたが、今、改めて真の人材育成を願う故忠治氏の気高い偉業に敬意を表するとともに、本奨学会の社会的責任の重大さに思いを新たにする次第です。累計約1,400名の全奨学生諸君には、感謝の気持ちを忘れずに、逆境を克服して、明るい未来を切り拓いていっていただきたいと思います。

故青井忠治の思い出